あなたがそこにいる意味

日本経済新聞朝刊の小説「禁断のスカルペル」。

主人公の外科医・東子(はるこ)はある日、明け方に目覚めて散歩に出る。そこで、既に亡くなっている母と、おそらく東日本大震災で津波にのまれてしまった(現在行方不明の)恋人・充彦を見かける。


「久しぶりね。元気でやってる? 頑張ってる?」
 お母さんはなぜ、よりによって充彦とこんなところを歩いているのか。
「たまたまよ」
 と母はまだ東子が尋ねもしないのに答えた。
「わたしたちはね。向こうの世界で楽しく暮らしている。だから、気にしなくていいのよ」
「何をおかしなことを言っているの?」
「純子ちゃん、知ってるわね? 内海純子ちゃん。私と同じジュンコだから、あちらでは仲良しよ。みんな向こうでは仲良しなの」
「お母さんは、そんなこと言っているけれど、こちらは大変なのよ。自分たちだけ向こうで楽しいって、おかしいじゃない。残されて生きる身にもなってちょうだいよ」
「ダメだよ、東子ちゃん、お母さんを悲しませちゃ」と充彦が口を開いた。「ぼくらはあっちへ行ってしまった。でもきみはこっち側にいる。みな意味があってそうしているんだから、きみはきみの世界で、その意味をまっとうしなきゃ」
「言っている意味がわからないわ」
「そのうちわかるよ。もうすぐ、きみがきみの側にいる意味がわかってくる。きみには果たすべき役割がある。だからそちら側にいなきゃいけないんだ」 

 

上記のやりとりは、東子が見た夢であった。その後、東子は自分の娘(離婚して夫に引き取られたため、その後音信普通となっている)が腎臓病に侵され苦しんでいることを知る。東子は、癌などで摘出した腎臓を再建し、腎臓病で苦しむ患者さんに移植することを得意とする。明日以降の連載ではおそらく、東子が娘のために奮闘していくことになるのであろう。充彦が言っていた「きみがきみの側にいる意味」「きみには果たすべき役割がある」とは、このことだったのだ。

 

翻って、この世界にいる私がいる意味はなんだろう。そして、自分という主語を横において、世の中で役立つためには何が出来るのだろうか。最近、そんなことをよく考えている。この世に生を受けたからには、誰もがそこに存在する意味があるはず。年齢も性別も国籍も宗教も信条も何も関係なく。全ての人に平等に、存在意義が備わっている。全ての生き物に、全ての事象に。